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わげんせ 證誠寺の歴史と伝説

2017年11月10日

證誠寺

證誠寺前就職の隆克明さん
證誠寺の狸塚
證誠寺境内の狸像

わげんせVol.2(2017年秋号)の特集「昔ばなしとお寺」でご紹介した證誠寺。
「しょ、しょ、しょうじょうじ♪」の童謡は誰もが耳にしたことがあるのではないでしょうか。
今回は、證誠寺前住職の隆克朗さんが、證誠寺の歴史と狸ばやし伝説について語ってくださいました。


 

江戸時代初期、了念という浄土真宗の僧侶が鎌倉より木更津に到着。街はずれの森を切り開いてこの地に證誠寺を創建し、初代住職に就任した。その子孫が代々住職を世襲し、現住職は12代目である。

京都の本山本願寺の記録によれば、「寛永3年(1663年)に上総国望陀郡(かずさのくにもうだぐん)菅生庄木佐良津郷(すごうしょうきさらづごう)釋了念(しゃくりょうねん)に、寺号、木仏等を下付した」とある。最初の門徒は、伊勢長島の一向一揆の際に織田信長と戦い、その後当地に移住した人の子孫だった。

了念は馬で方々に出かけて熱心に布教活動をしたらしく、当時の過去帖を見ると葬儀をした人の住所の多くは、久留里村等20キロも先の遠隔地である。

当時木更津港は、徳川幕府の命令で、房総半島から江戸へ渡る唯一の港に指定されていたため、木更津は全国から多くの商人が集まる港町として大発展した。その中の真宗門徒が、次々に当寺本堂裏に墓を建てた。又、当時江戸で流行った富くじが木更津にも波及し、何故か当寺が売場になった。

ある時、1枚だけ売れ残り、それを当寺に寄進することになったが、その1枚が1等500両の当たりくじだった。享保16年(1731年)のことである。その金で現在の七間四面の欅造りの本堂が新築された。

第5代了因の時代(1778~1824年)頃から、当寺は寺子屋として大いに繁盛し、歴代住職はその師匠として門徒以外の地域の人々からも尊敬され、慕われるようになった。境内にある筆子塚には、「公(了因のこと)は性總敏慈和にして、其の衆の為に談ずるや、智弁流るるごとくして聴く者悦服せざる莫し。行余の嗜む所、挿花の技最も精妙にして、兼ねて蹴鞠を能くす。公、居常善く里人を誘導し、筆法を教え句読を授く。業を受けし者前後三百余人」と彫られている。

その頃より種々の法要の規模も拡大、例えば寛政9年(1797年)秋の本堂瓦屋根替により、五昼夜連続の慶讃音楽(雅楽演奏による)法要が行われ、境内には芝居小屋、見せ物、商店など立ち並び、大賑わいだった。

「房総地区真宗寺院の住職方六人も、泊まり込みで参加された。」と記載されている。

大正12年(1923年)の関東大震災では、本堂は後方に傾き使用不能になり、多くの電柱を当てがい倒壊を防いだ。ところが、その4か月後に激しい余震があり、本堂は元の真っ直ぐに戻り、現在何の支障もなく使用されている。

さて当寺には開基間もない頃より、狸ばやしの伝説がある。

萩の花が咲き乱れる境内で、中秋の名月に照らされながら、住職と大小百匹ばかりの狸が一緒に、「證誠院のペンペコペン、おいらの友達ゃドンドコドン」と繰り返し歌いながら、幾晩も夜通し楽しく踊っていたというのである。

明治38年(1905年)に発行された木更津の郷土誌「君不去(きみさらず)」の伝説の項目のトップに、4ページにわたり詳しくこの伝説が載っている。

大正時代当地にたまたま講演に来られた詩人野口雨情先生がこれを作詞、さらにそれを作曲家中山晋平先生が作曲し、童謡「證誠寺の狸ばやし」が誕生した。丁度全国にラジオが普及し、その電波にも乗って大ヒットした。当地では、観光地化を計り、街の有力者が集まり相談、境内に狸塚、童謡碑などが造られた。

昭和23年(1948年)には、当時中学2年生だった今の天皇陛下がおいでになった。毎年10月には狸まつりが行われるなど、私は、その昔一緒に歌い踊っていた大勢の狸と住職の姿を楽しく想い浮かべている。

 


いかがでしたか? まさに、「寺に歴史あり」でしたね。
みなさんも是非、狸ばやし誕生の地に足を運んでみてはいかがでしょうか。

■寺院データ
寺院名:護念山證誠寺
住所:千葉県木更津市富士見2-9-30
TEL:0438-22-2018
アクセス:JR内房線木更津駅から徒歩6分

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